昭和57年6月9日 朝の御理解
                              明渡 孝


 御理解第19節『金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる』


 昨日、四時のご祈念を終わらし頂いて、下がろうとしておるところへ電話がかかってきた。熊本の木村さんからであった。木村。親子で、親子というても子供さんはまだ小さいんですけど。洋装店ですかねあちらは。洋装店をなさっておられるんでしょう?をなさっておられるんです。
 先だってから、もう、にっちもさっちもいかなくなって、どうにもしかたがない。もう毎日毎日電話がかかってきましたけれども、なかなかおかげにならん。そういうある日、もう決心されたんですね、子供さんにいくらかの金をやって、自分の郷に帰っておけと、ご自分の郷に帰された。そして、どこ行くとも言わずに、合楽にみえて、数日間ここで修行をされました。
 さあ、家ではその行く先を言ってないもんだから、しかも子供に金を与えて郷に帰したりしとるもんですから、もう自殺するんじゃないだろうか、ということで、もうたいへん心配、その後の話ですけれども、だったということですけれども。
 昨日、その木村さんから電話がかかってまいりました。もう親先生、あれ以来最近、もうほんとにもう、こういうおかげを頂いても良かろうか、というようなおかげの毎日でございます。ここにこれこれだけのお金が、というとお金が集まる。あの人にと思いよると、その人が向こうからやってくる。もうとにかもう、ただごとではございません。こんなおかげを頂いても良かろうか」という電話でした。
 だから、金光様、合楽の信心はね、それをいよいよ大きく広く育てて行くことだよ、と言うてまあ電話を切ったことでございますけれども。なら、今日の御理解を頂きますと、「金光大神様」と唱えた所に金光大神の働きが起こり、来て下さるのです。けれども、その受け止める心というものがなからなければ、来て下さっただけじゃ何もならんでしょうが。来て下さるんです、それを受け止める心は、ならもう毎日毎日、じゃんじゃん電話をかけてきてから、「どうぞ助けて下さい、助けて下さい」という、焦りのある時には、おかげが受けられなかったということですね。
 これは確かにそうです。焦っておる時にはおかげにならんです。ね。そういう時には、それこそ木村さんじゃないけれども、どん腹を据えて、子供は郷に、いうなら帰して自分は合楽で修行生の方達と一緒に、しばらく修行されました。そしてなら、昨日の電話です。ね。
 もう金光大神が来て、もういよいよ、微に細にわたっての働きを始めておられるということが分かるでしょう。だから、そういう働きをいよいよ本当なものにしていくことのために、合楽理念があり、御理念があるんです。ね。
 みなさんがね、おかげに焦りが出た時にはね、もうとにかくそこで足踏み状態になっていいです。先に進んじゃいかんです。さあ、あっちこっち金借り回って歩く時には、まあ、慌て、貸してもらうとこがある時はいいでしょうね。けれども、もういかんというたら、そこにいよいよ、どん腹据えなきゃいけんです。度胸を据えなきゃ。
 「金光大神来てくれ」もうそれこそ、泣くように言いよるから来て下さったに違いないけれども、そういう焦り心ではおかげが受け止められないということを、みなさんに分かって頂きたいと思うですね。
 そこでなら、テレッとして待っとくとじゃなくて、それこそね、木村さんじゃないですけれども、修行生の方達と一緒に、一生懸命の修行に没頭されたんです。ね。そして、なら昨日のお礼の電話でございます。これも、昨日の四時のご祈念終わってからでございましたが、今、伊万里から中原という若い青年の方が修行にきとります。あれはなかなか、なかなか良い信心をします。神様からいろいろとお知らせなんかも頂くんです。いわゆる神様に愛されるタイプとでも申しましょうかね。
 その人が、一生懸命、なら合楽に修行に、ね、まあそれこそ、もういよいよ道の教師にでも、問題は自分が助かること。ということを念願として、まあいうなら力を頂きたいという一念で、思い切って修行に入っておられるわけです。
 昨日、私と一緒に四時のご祈念をさして頂きよったげな。そしたらね、お声でね、小さい子供がね「あんたにはホウレン草はやらんよ」というお声を頂いたと言うんです。「ホウレン草はやらないよ」どういうことだと思うですか。
 ここでは、ホウレン草ということは、力を受けるというふうに、ね、私があの四年半の修行を終わった時に頂いたのがそうでしたよね。ホウレン草の御理解。ホウレン草というのは、マンガでやっておりましょう、ポパイのマンガがね。
 力がなくなってくると、そのホウレン草を食べると力が出るというわけですね。だから、いわゆるホウレン草のお知らせは、力ということですが、いうならば、中原さんは、とにかく本気で信心の説くを受けよう、力を受けようというのが、修行に入った、いわゆる眼目なんです。ね。
 ところが、神様からたとえが悪いとじゃろうね、というてまあ昨日申しましたことですけれども。力が欲しい、力が欲しい、というて、一生懸命修行しよる。ところが、神様でしょうねやっぱり。「お前にはホウレン草はやらん」と仰った。
 信心はね、何と言うても「どうぞどうぞ」のおかげからです、そのおかげを受ける力を頂くことが先決です。その力を受けるということがです、ただおかげをおかげで、ならどんなに良い信心などであっても、いわゆるおかげで帳消しになってしまいますから、いわゆる信心を頂こう、徳を頂こう、力を受けるという信心に向きが変えられるところから、ね。
 それこそまあ、徳の亡者とでも申しましょうか。もう徳になることなら、力を受けることなら、どげな修行でんいとわんというごとなってくるわけです。ね。その、力を受けたい、徳を受けたいというて、修行にわざわざ入ったのに、「お前にはホウレン草はやらん」と仰った。
 そこでね、私が申しました。神様が(たてらいより?)なさるとじゃから、やらんと言われても、それこそ袖にすがってでも、「どうぞ、頂かして下さい」というて願わにゃいけん、もらわにゃいけんな、というて申しました。ホウレン草ということはどういうことでしょう。力を受けるということはどういうことでしょう。ね。
 みなさんもね、ほんとにそのホウレン草、力が頂きたいためにはホウレン草食べなきゃいけない。ね。それこそ力のつくものをここに下さっても、どんなに栄養になるものをここに、目の前に出して下さっても、「それは嫌い、それは嫌だ」と言うならどうなりますか。力はつかんでしょうもん。ね。
 だからね、まずその力を頂く前に、自分が豊かに大きゅうならないかんです。痩せきれとるとがね、さあ、相撲取りになろうちゅうたっちゃ、力はつかんでしょうもん。これは化けもんごと大きい。だからそれで、いよいよその、力量とか技を身に付けて始めて立派な相撲取り、力持ちになりますように、まず自分が大きゅうならにゃいかん、太らにゃいかん。ね。だからその、太る手立てをね、御理念によらなければできんのです。
 昨日私は、ここを整理しとったら、以前から探しよったけれども、誰か持って来てくれたんじゃ。この私の手控え、これは西岡先生が、私らの広告やらなんでん、あげんとに、どんどんこう書いてここにいっぱい溜めとるもんですから。もうこれは捨てても良い。そん時そん時の御理解になったり、私が頂いたものです。
 だから、それがたくさん溜まってもう、捨ててもいいと言うておったんですけれども、今度、ここの青年会の、十五年の記念に記念出版を思い立って、今幹部の方達がそれを全部その、だからそれを毎日私、あらためて聞かせて頂くんですけれども、もうほんとに、もう何十年前に、まあ神様に頂いたり、私が感じたりしたことを書いておるのが、もう今に、まだ生き生きとしてね、助かりの力を持っておるものばっかりなのに、毎日聞かして頂いて驚いております。
 そういうものの中にね、こういうものがあったんです。もう合楽で信心をさして頂くならもう、ここんところに、根本としての信心なさらなければ力は頂かれませんですよ。では聞いて下さい。
 ●③「天地の気息に合わせ」天地の気息というのは、「き」は気候の「気」「そく」は「息」という字。ね。天地と共に呼吸するということです。ね。
 「天地の気息に合わせ、宇宙の呼吸に合わせる。大生命の流れの中に、神秘の体験を積むことを修行とする」ね。
 不思議な不思議なと思われる、その神秘の世界に住まわしてもらう。神秘の体験を頂くために修行を積むというのです。ね。聞いただけで「これが合楽の信心だ」この一言で、いうならば、合楽の信心は、もうこれなんですからね。もう天地と共に呼吸しておるような、ね。天地の、まあいうならばリズムに乗った生き方というふうにもここでは申しますね。そういう神秘の世界。ほんとうにもったいないおかげの世界に住むことを修行とするためには、ならどういうみなさん修行をしなければならんと思うですか。ね。
 いよいよ天地日月の心でしょう。具体的に言うたら、いよいよ天の心地の心をです、いうならば、成り行きを尊ぶ、大切にさしてもらう。徹底した成り行きを尊ばしてもらう。いよいよ徹底して土の心を身に付けて行く。●③
 そういう修行をさして頂いていくうちにです、例えばこれを聞いただけでは、「とても難しゅうて自分どんでできる、そういう神秘の世界に住むなんて」と思うでしょう。ところが合楽では、こういう例えば難しかりそうなことをです、具体的に説き、具体的に子供でも行じようと思えば行じれれるように説くのですから。それを行じなくてから合楽がある値打ちがないでしょう。ね。
 そこに、ほんとに神様と、いわば交流し合うておる、肌と肌とが合っておるような、ね、天地の気息に合う、天地と共に呼吸しておるような情感というか、実感を日々感じる。そこから、いうならば、木村さんじゃないけれども、願いもせん思いもせんことがです、もう神様の方が先に立っておかげを下さっておる。「こういうおかげを頂いても良かろうか」と、その神秘さ不思議さにビックリして昨日は電話かけてきたんです。ね。
 だから、それをいよいよ大きく広く育てて行くことなんだというふうに、私は昨日申しました。ためには、中原君が頂いておりますように、ね、神様から立て替われることがあるです、みなさんでも。神様は、ある場合には「意地が悪いな」といったような時があるでしょう。いうなら立て替われとる時です。やらん、「お前にはホウレン草はやらん」というお声を頂いたっちゅう。
 こちらは、そのホウレン草が頂きたいばっかり、力が頂きたいばっかりに合楽に修行に来ておるのに「お前にはホウレン草はやらん」そこで、願ってでも頼んででもすがってでも、そのおかげを下さいじゃなくて、そのホウレン草が頂きたい、力になるもとを頂きたい。
 そこには、いろんな問題もあろう、事柄があろうけれども、その事柄問題を自分の力になる手立てとして、いよいよもって合掌して受けて行く生き方が、今日ここに、いうならば神秘の世界に住むことができる。ね。合楽の信心は、私は、そこを目指さなければね、ほんとのことじゃないと思うです。
 あのね、成り行きを尊ぶが大切、口に言うだけでね、できたりできなかったりじゃ絶対おかげにならんです。はい。ね。おかげは頂くけれども、力にならんです、それじゃ。ね。
 それにはね、やはり「力を頂きたい」その力のもとというものはです、ホウレン草です。場合によっては、神様がね、「これほど信心するのに」と思うように、いうなら皮肉に、ね、意地悪く、神様が立て替えなさるような時がございます。ね。
 子供が好きなものを持っておってから見せびらかして、ね。「ちょうだいちょうだい」というけれども「お前にはやらん」と言うて、実際はやりたいばっかりの親心なんです。ね。それを頂かずして、いうならば神秘の世界には住まわれません。いうなら、必要な物が必要に応じて頂けれる、いうなら人間の幸福の条件がすべて足ろうてくるといったような十全のおかげにはなりません。ね。
 お互いがです、ホウレン草を頂こうと思うておる人もないかもしれん。力を頂きたい、いや、おかげさえ頂きゃいい、と思うておる人があるかもしれん。そういう人は、いよいよ火に尻が点くように、(笑)尻に火が点くでしたかね。火に尻が点かんもんね。ごとなってから「どうぞ、どうぞ」というて、泣くこと頼んだっちゃね、もう心に焦り出とるから、金光大神が来てくれ、とそこに来て下さってあるんですけれども、それを受け止めることができないんです。ね。
 そういう時には、もう前に進むということを止めて、足踏み状態になって、本気で「本当のものを頂こう、身に付けよう」といったように、それこそ木村さんじゃないけれども、もうそのことは棚に置いておいて、子供のことは郷に預けておいて、そして合楽に出てきた。そういうような信心がね、んなら昨日お届けをさして頂くように、「こんなおかげを受けても良かろうか」というようなおかげの世界、神秘の世界が開けて来るんです。ね。
 これは、まあいうならば、ちょっとまあおかげの手付のようなものでありましょう。ほんとのものを頂く為には、これからの信心がまた、期待されるわけですけれども、ね。そういう信心の線に、それこそ天地と共に、いうなら交流し合っておる、肌と肌とが一緒に呼吸しておる。「そんな難しいことできるだろうか」と。合楽理念にもとづいたらできるです。
 みなさんが、もう日々、万事万端ほんとにご都合お繰り合わせの中に、素晴らしいタイミングが生まれて、前を走っておった、いうならば自動車のナンバーひとつ見てでも自分の心が助かる、といったような体験をみなさん持っておられるでしょうが。ね。そういう、いうならば働きをいよいよ育てて行くことのために、ね。いよいよ綿密な御理念の実験者になって、いよいよ実証者たらんという願い。それには力が要るです。
 たまには神様が「お前にはやらん」と立て替えなさるようなこともあろうけれども、そこをすがってそれを頂いていくことによって、力が頂けれる。ね。力を頂いてからのおかげじゃなからなければ、ほんとのおかげじゃないと思うんですけれども。ね。
 それこそ泣くようにして「金光大神」と言いよるから、もう絶対来て下さってあるに違いないけれども、ならおかげを現すことができないのです。焦っておりますから。ね。焦った心じゃおかげにはならんです。ね。
 そして、いよいよ信心を身に付けていく、血に肉にしていく、いうならホウレン草を食べる度に力ができることが感じれるような、信心修行の喜びと楽しみが湧いてくるようなおかげを頂かなければならんということでありますね。どうぞ。